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ことばの多様性を考える:社会言語学の視点から
水澤 祐美子 准教授
文芸学部 英文学科
専門分野:社会言語学?英語教育
水澤 祐美子 准教授
文芸学部 英文学科
専門分野:社会言語学?英語教育
私たちは、毎日ことばを使い生活しています。コミュニケーションの道具として、また思考の道具として身近なことばですが、ことばを使って考えることはあっても、ことばについて考える機会が少ないように感じます。授業で身の回りの言語現象を社会言語学の視点から説明すると、学生から「今まで気がつかなかった」というコメントが多く寄せられます。「知らなかった」のではなく「気がつかなかった」というコメントからわかるように、ことばの現象について、「知ってはいた」けれども「気がついていなかった」のです。このように、社会言語学という学問は、身近なことばが研究対象になります。そのため、身の回りで日々起きている言語現象に対して、敏感に目を向け耳を傾けることが重要になります。今回は、さまざまな角度からことばの多様性に焦点を当て、社会とことばの関係を考えます。
この文章を読んでいる人たちのなかには、沙巴体育の学生や沙巴体育を志望している高校生がいるかもしれません。そういった若い人たちは、看護師や保育士といった職業名に馴染みがあるでしょう。かつては、それぞれ看護婦、保母と呼ばれていました。このように、現在使用されている職業名とかつて使用されていた職業名の違いに共通していることは何でしょうか。看護師や保育士の傍点が付いている箇所と、看護婦や保母の傍点が付いている箇所を見比べてください。かつての職業名には、女性を暗示する「女偏」や「母」という文字が使用されていました。それが現在の職業名では「師」や「士」といったように、比較的性別に偏りのない文字が使用されています。ただし、『広辞苑』を紐解くと、「士」には「学徳を修めたりっぱな男子。また、男子の敬称」という意味があります。性差をなくそうと保母から保育士へと職業名は変化しましたが、「母」ではなく、男子を意味する「士」が使用されるようになったのは大変興味深いことです。
ことばの性差をなくす中立化は、英語にも多く見られます。英語で使用されているchairperson, firefighter, police officerという職業名は、かつてchairman, fireman, policemanと呼ばれ、「男性」を意味するmanが使用されていました。客室乗務員を意味するcabin attendantは、かつてstewardessと呼ばれていました。単語の末尾にあるessという接尾辞(単語の最後について意味を表すことば)は女性を意味します。そのほかにも、女性を表す接尾辞essのついた職業名は、waitressやactressがあります。女性のwaitressに対して、男性にはwaiterという呼び名がありますが、最近では、性別に関係なくserverという呼び名が使用されるようになりました。一方、actressは、男性の職業名に同化され、男女ともにactorと呼ぶように変化してきています。逆の現象が起きた職業名は、nurseです。日本語で看護婦が看護師に代わったと先に説明しました。看護師に対応する英語nurseは、もともと「小さい子どもの世話をする女性(乳母)」を意味していましたが、現代においてnurseは、男女の差なしに使用されています。アメリカ英語では、maleとnurseを合わせた造語murseがスラングとして存在し、男性のnurseを揶揄するために使われることがありますが、一般的ではないようです。今後、nurseという職業名がどう変わっていくか興味のあるところです。こういった変化は、性別に関わらず職業選択が可能となり、女性の社会進出が進んだという社会的背景に由来しています。
ほかにも女性だけ既婚?未婚を区別するのはおかしいのではないかという意識から、新しい表現ができた例があります。男性は未婚?既婚に関係なくMr1という敬称が使用されています。一方、女性の場合、未婚女性の敬称をMiss、既婚女性の敬称をMrsとし、未婚と既婚を区別していました。しかし現在は、未婚、既婚を問わずMsという敬称が定着しています。Oxford English Dictionaryによると、Msという敬称が初めて世に出たのは1901年であり、一世紀以上が経っています。最近では、男女の性別に偏らないMxという敬称が新たに生み出されたので、百年後には、Mxの方がMrやMsよりも一般的になっているかもしれません。
性差のあることばをなくそうとする流れは、意外なところにも影響を与えています。Manholeは、みなさんご存知の地面にある丸い鉄の蓋です。カリフォルニア州のバークレーでは、2019年に市民投票を行い、性差のある表現を公文書から排除しようという条例が可決されました。その結果、manholeは使用せず、代わりにmaintenance hole を使用することになりました。さらに、brotherやsisterは、男女差のないsiblingと記載することになりました。日本でも「マンホール」ということばを使わなくなる日が近いかもしれません。
こうした「中立的なことば(politically correct terms: PC表現)」は、性差にとどまらず、人種や宗教、身体的特徴など多くの分野でも存在します。人種の例を挙げてみましょう。日本では、肌の色が黒い人を黒人と呼ぶことがあります。アメリカでも、彼らはblacksと呼ばれていましたが、近年になって、African-Americans(アフリカ系アメリカ人)と呼ばれることが多くなりました。それでは、いつ頃から、どうしてblacksに代わってAfrican-Americansが使用されるようになったのでしょうか。今から30年以上前の1989年1月に発行されたThe New York Timesの記事によると、当時、公民権運動の活動家であり政治家でもあるJesse Jacksonが、blacksに代わりAfrican-Americansを使おうとする運動を率いており、その運動が波紋を呼んでいると記載されています。同じ記事に、知識層は、当時何年にもわたってAfrican-Americansを使用してきたとも記載されていますので、African-Americansは1980年代半ばから徐々に使用されるようになったようです。アメリカにおけるblacksの使用傾向について、コーパスを用いて調べたところ、当時のアメリカの社会背景を反映した結果が得られました。コーパスとは、小説や雑誌、新聞、ブログといった書きことばや日常会話などの話しことばを集積し、コンピューター上で検索?分析ができるデータベースです。コーパスの1つに、Corpus of Historical American English (COHA)があります。COHAは、1800年から2009年にわたりアメリカで出版された小説や雑誌、ニュース記事を4億語分収録したコーパスです。COHAによれば、blacksが1960年代になると、約300件と顕著に使用されはじめ、1970年代から1980年代にかけて1,500件以上使用されていることがわかります。一転して1990年代に1,100件程度と減少傾向に転じ、2000年代には670件と激減しています。Blacksに関するコーパス上の数字の変化は、1950年代後半から起こった公民権運動や1980年代半ばからblacksの代わりにAfrican-Americansを使用しようとする運動に見られたアメリカの社会背景と連動していると考えられます。 キング牧師が“I have a dream.”というフレーズで有名なスピーチを行ったのは、1963年のことです。1960年代から1970年代にかけて、アフリカ系アメリカ人の民族意識が高まり、 “Black is beautiful.”というフレーズが登場しました。こういった民族意識の高まりがあったものの、アフリカ系アメリカ人は、白人と比較すると収入が低く、失業率や犯罪率の高い状況が続きます。その結果、blackということばにマイナスのイメージがつきまとうようになりました。そして、blacksの使用は差別を助長するという理由から、blacksの使用を控え、African-Americansを使用するようになりました。しかし、アメリカに住む肌の色が黒い人たちは、アフリカにルーツを持つ人ばかりではありません。そういう人たちは、African-Americansと一括りにされることに違和感を持つようです。アメリカに住む肌の色が黒い人たちをAfrican-Americansと呼ぶことで、問題が解決すると言えるほど簡単ではなさそうです。
たしかに、英語でblack lieは「悪意のある嘘」を、そしてwhite lieは「誰も傷つけない小さな嘘」を意味します。「厄介者」を意味するblack sheepという言い方もあります。しかし、blackに対するイメージは文化によって異なり、必ずしも黒がマイナスなイメージを持つとは限りません。昨年、大いに盛り上がりを見せたラグビーW杯では、All Blacksというニュージーランド代表チームの愛称がメディアで頻繁に登場しました。また、日本で「黒」は、褒め言葉として使われることがあります。「漆黒」ということばは「漆塗りの器のような艶のある黒色」を意味しますし、「濡羽色」は「濡れた烏(カラス)の羽のような艶のある黒」を意味し、女性の髪の毛の色を褒めるときに使われます。とはいえ、「腹黒い」や「黒星」といった表現もありますので、日本での「黒」に対するイメージは判断が難しいところです。
宗教に関するPC表現としては、日本でも馴染みの深いMerry Christmasがあります。日本では、クリスマスケーキ、クリスマスプレゼント、クリスマスカードなどと聞いて違和感を覚える人は滅多にいないでしょう。しかしアメリカでは、人びとが信仰する宗教の多様性を考慮し、宗教色のないSeason’s GreetingsやHappy Holidaysが使用されるようになってきました。アメリカのオバマ前大統領はクリスチャンですが、大統領在任中の2016年12月、公式なカードにMerry Christmasではなく、Happy Holidaysというメッセージを使用しました。一方、2017年に就任したトランプ大統領は、公式なカードにMerry Christmasというメッセージを使用しました。それぞれの大統領の姿勢が見て取れるエピソードです。
身体にまつわるPC表現もあります。耳の聞こえない人を意味するdeafに対し、hearing impairedが使用されるようになりました。しかし、アメリカのThe National Association of the Deafという耳の聞こえない人をサポートする協会のホームページでは、「hearing impairedということばに含まれるimpairedが、逆にネガティブな印象を与えてしまうため、hearing impairedを使用していません」と記載されています。むしろ、協会名として使用されていることから分かるように、当事者の方々はdeafということばを使用しているそうです。African-Americansやhearing impairedの例は、PC表現を使用するときの難しさを提起しています。
身体に関連して、みなさんはvertically challengedと聞いて何を思い浮かべるでしょうか。Verticalは「垂直の」という意味なので、「垂直の方向で課題を抱えている」となり、「背の低い人」や「非常に背の高い人」を意味します。一方、horizontally challengedは、「水平の方向で課題を抱えている」ことから、「太った」を意味します。実際には、こちらの表現よりもoversizedの方が多用されています。「非常に痩せた人」という意味でhorizontally challengedが使われていないのは興味深いところです。ここまでくると、ことば遊びのように感じてしまいますが、みなさんはどう思われますか。
いずれの場合であっても、相手の立場に立ち、相手が不快な思いをしないことばがPC表現と言えるでしょう。これまで日本語と英語のPC表現を題材に、ことばの多様性を見てきました。次に英語の多様性に目を向けましょう。